軸ブレ社会人の活動履歴

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パワハラされたり、パワハラしたと訴えられたりー自己紹介記事(1/2)

皆さん、こんにちは。軸ブレ社会人です。

ブログを始めてから一か月半ばかりが経過しましたたが、ここで少し自分の仕事や趣味ことについて書いてみたいと思います。いわゆる「自己紹介記事」というやつです。

全体を通して、あまり面白くないかもしれませんが、ちょっと自分なりの特殊な経験としてはパワハラを受けたりパワハラしたと疑われて社内で通報されたりしたことがああります。軽い気持ちで僕のことを知ってもらえたら嬉しいです。

(ちょっと長くなってしまうので2部構成にしました。)

 

[:軸ブレ社会人の概要]

簡単にいうと社会人歴23年目46歳のおっさんです。

学生時代は勉強、スポーツともできたほうで、世間の感覚でいう「挫折」などを味わうこともなく、無難に過ごしてきたほうかと思います。都立高校、国立大学出身で学費の面では親孝行だったのかもしれません。

家族構成は妻と20歳になる大学生の長男と3人で分譲マンションで暮らしています。社会人2年目で結婚3年目で長男が誕生したこともあり、マンションの返済やオムツなどの養育費など、給料が安い時代は、結構金銭的に苦労しました。百均ショップやディスカウントストアで妻と毎日食料を漁る苦悩の日々を過ごしたのは今は良い思い出です。

新卒で勤めた会社から、様々な挫折など繰り返し、3回転職し、今は「癌患者の治療方針を決定する遺伝子検査」を行う外資系の医療機器の会社に勤めています。現在は、時間的にも、金銭的にも余裕が出始めているので、ツイッターなどのSNSやこいうったブログで情報を発信したりランニング読書仏像彫刻などして時間を過ごしています。最近ではロードバイクを購入し、トライアスロンも始めました。

 

[:光学機器のメーカーで半導体製造装置の営業職ー1社目(新卒)]

 大学を卒業して就職したのはこの会社。営業職として11年勤めました。

留学経験などをない私が、英語を使うようになったのもこの時期。メーカーの販売会社であったものの、私が取り扱う商材はドイツとアメリカにある別会社から輸入して国内の半導体メーカーに販売する仕事でした。お客様は工場などの生産現場のため技術的問題、障害など発生した際のあたりがキツイかったです。その対応や回答のためにドイツとアメリカの会社に掛け合う必要があり、明日回答を入手しないと「契約打ち切り」などの修羅場が多く、必要に駆られ英語を使い始めました。口頭でやり取りするスキルもなかったので、まずは英語で文字を入力しFAXを送信。返事がないことも多く、内容を必ず見てもうために電話で「FAXで送ったので見ておいて」と伝えるなど工夫して仕事をこなしていました。

あと、この時代は毎日出張していたと思います。半導体生産現場は北海道から沖縄まで、日本の各地に点在しており、週の4日はほぼ外泊の出張でした。長男が誕生したのもこの時期で、予定日より遅れたこともあり、出産には立ち会えず、長崎の居酒屋で長男の誕生を知ったという失態。生まれたあとも土日以外は妻に子育てを任せっきり。そういった意味で妻や子供には苦労を掛けたと思っています。立ち合い出産ができなかったことは、妻からは未だに恨み節を言われます。

この仕事を辞めたのは、表向きの理由は、「日本の半導体業界の衰退」です。世界を席巻していた日本の半導体メーカーが、1990年代後半から2000年代前半にかけて、インテルに代表されるアメリカ勢サムソンや台湾ファンダリーなどのアジア勢に追い抜かれ事業が衰退していきました。そのため我々の顧客の投資機会がなくなり、半導体製造装置が売れなくなっていくことを見越したから。ただ本当の理由は、ひょんなことから、若い時代から切磋琢磨した同年代のエンジニア(入社は彼のほうが後輩で、年齢は1つ年上)より給料が低いことがわかり、会社の自分に対する評価に失望したためです。今思うと「大学院卒」の彼と「大卒」の私の比較、ましてや「営業」「エンジニア」という職種が違う従業員の比較をすることの無意味さに気づいていませんでした。ただ当時は、彼らも含むエンジニアなどもけん引して、ある大きな競合ユーザーの超大手の顧客を陥落して大きな商談プロジェクトを成功させたこともあり、そのような評価内容を知ってしまったことは、私にとっては初めての「挫折」でもありました。

今ではそのエンジニアとも、数年に1度の頻度で会うこともあり、その時のエピソードも含めて腹を割ってお話できる戦友としてお付き合いしています。

 

[:マイクロプロセッサーのビジネスオペレーション業務ー2社目]

 2社目は、アメリアの大手マイクロプロセッサーメーカーの日本法人約8年間勤めました。仕事の内容は、顧客からの注文管理、製品の納期管理需要予測、工場からの製品供給枠確保などのサプライチェーン業務のほか、市場分析なども含む売上予測、事業計画作成など、業務系の仕事を広範に行うビジネスオペレーションを行いました。またマネージャーへ昇進し、マネジメント業務を行うようになったのもこの時期です。

注文管理、納期管理、売上予測などは、半営業的な要素も多く、顧客との信頼関係構築など前職のスキルを活かすことができたのですが、ビジネスオペレーションの本質的なところでは初めてのことも多く、当時、営業職11年を経験した33歳の私にとっては、大きなキャリアチェンジでした。様々なツールエクセル業務に苦戦。当初はエクセルのVlook up関数や、SUM関数Pivotテーブルなど、何のことやら。新卒間もない若いメンバーに圧倒されていたことを記憶しています。

また周りは留学経験者帰国子女ばかりで、英語スキルの差に圧倒されました。会社の共通言語が英語ということもあり、メールは日本人同士でも英語でおこわなれるし、母国語のようにディベートを海外と行っている周囲に終始圧倒され、この英語の面では最後まで劣等感を感じながら会社生活を過ごしました。

初めての外資系の企業に転職し、トンでもないところに入社してしまったという後悔の半年感を過ごしましたが、それなりのコツと知識を吸収し、一人前に仕事をこなせるようになってからは、一つ一つの仕事工夫オリジナリティを加えたりするようになりました。おそらくこの時代で、ビジネススキルが大きく向上したと思います。徐々に周りの信頼を獲得し、様々な業務や会議体に召集されることになり、とうとう38歳でマネージャーに昇進することができました。

 しかし、昇進したのもつかの間、日本法人がアジアパシフィック地域に統合されることになり、大きく組織が刷新され、大きなリストラが起こりました。マネージャー職含む様々なポジションの削減など行われましたが、幸い私はマネージャーとして残ることができました。おそらく当時の日本の部門長の配慮などもあったのだと思います。しかしながら、何か気になる態度や行動をとったためか(自分には全く身に覚えがない)、香港の女性上司から目を付けられ、各会議体での発言や提案など全面否定。これまで前職も含め、上司からここまで悪い評価をされたことはなく、社会人2度目の「挫折」。結果、ノイローゼになり心療内科に通うことになり、躁鬱との診断。休業の選択もありましたが、なんとなくキャリアに傷がつくような気がして、仕事を続けることを選択。ここからは苦悩の2年間。会社に実際上司がいるわけではないのに(香港からのリモートマネージメントなので)、会社行くのが恐怖でたまりませんでした。どういうわけか、部下に会うのも怖い。家でも寝込んでばかり。唯一の方法は会社を去ることだと思い、転職活動を行うことを決定しました。

しかしながら鬱の状態で転職活動を行っても良い面接ができず、落選の日々。その度に自信を失い、「負の連鎖」。転職エージェントからの手厚いサポートを受けて、なんとか一社内定を獲得したら、トントン拍子で複数の会社からオファーを頂きました。そのうちのカテーテルを取り扱う小さな外資系の医療機器の会社を選ぶことにしました。理由は、給与が良かったこともありましたが、米国本社が超大手医療機器メーカーから買収されて、日本法人も統合することが決まっていたので、超大手に就職することと同義と感じたから、という理由で決めました。(ただこれがのちの更なる「挫折」につながることになります。)

 

世の中にはもっと波乱万丈でドラマティックな人生を送っている方も多いと思います。

そういう方に比べると、平凡な人生を送ってきたのかもしれません。しかしながら自分にとっては、様々な挫折と葛藤を繰り返してきたと思っています。

 

 今日はここまで。長文お読み頂き有難うございました。

 

後半も読んで頂けたら嬉しいです!! 後半では、直近での仕事のこと、趣味のことなど記載しています。

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